本能寺の変を考察する②明智光秀の野望説の矛盾
今回は、長く主流になっていた動機の「野望説」「怨恨説」を、光秀の行動から否定したいと思います。
前回
もくじ
明智光秀野望説、怨恨説とは
しかし彼は虎視眈々と天下をその手につかむ野望を捨てていなかった。
そして来たる日、織田信長はわずかな手勢で本能寺に宿泊。
そのわずかな隙を見逃さず、明智光秀は軍を率いて本能寺を襲撃。
見事信長を討ち取り天下への足掛かりを掴む。
……というのが明智光秀野望論の大まかな理由です。
また、日頃髪の毛が少ないことを家臣のいるなかで嘲笑されたり、度の過ぎた叱責、パワハラ……
そのうっぷんから隙のできた本能寺を……というのが怨恨説になります。
怨恨説の否定
光秀は日頃信長に対して恨みを抱いていた。
というのが本能寺の変後から明治までの主流な説でした。
しかし、その根拠となる文献が一次資料ではなく、さらに読み物である創作物を根拠にしていること。
「瓦礫のように落ちぶれ果てていた自分を召しだしそのうえ莫大な人数を預けられた。
一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」
と、信長への感謝と崇拝の伺える内容が記されています。
1年の間に後先を考えずに信長の命を狙うほど心境が変化するとは考えづらい(それこそ創作物のように母殺しを強要されたとか、宴会の席で罵倒されたとか強引な理由付けをしていかなくてはならない)ので、今回は無理がある。ということにしておきます。
野望説の矛盾
怨恨説と共に主流だった野望説。
・かなりの切れ者で、信長を始め家臣団にもその能力は評価されていた。
それらの評価を当てはめると、前述の信長への忠義は油断させるための演技かもしれないと思わせることもできます。
野望を抱いていると仮定して本能寺の変に至るまでた事後の行動を見ていきます。
いくさの本質から見る不自然
当時の戦も現代の戦争も原理は同じです。
互いの要望が折り合いがつかず、話し合いでも解決しない場合、武力(暴力)で言い分を通そうとする。
これが「いくさ」です。
暴力がぶつかると命が奪われたり、街が壊されたり、少なからず傷がうまれます。
なので一般的には戦いというものは嫌がられます。
戦争を引き起こした人や勢力はあまりよく思われません。
会うなり殴りかかるような人は近づきたくないと思うし、暴力を振るう旦那は世間から非難されます。
なので、戦いを仕掛ける側は「大義名分」というものを作り、味方を増やし、戦いを正当化しなければいけません。
攻撃する前に周りを納得させて終わったあとに周りを味方につけないといけません。
本能寺の変ではどうだったのかというと、変の後に一斉に味方になりそうな武将に手紙を送ります。
しかし賛同者は出てきません。
娘を嫁に出して婚姻関係を結んだ細川家も、この件には関わらないと返事も返さず、出家して完全に無関係を決め込みます。
主君殺しですから織田家の中でも世間的にも大罪です。
もし今後天下を目指すなら事件後の地盤固めのために味方を作るべきでした。
織田信長だけを標的にしている
結果的に織田信忠も討ち取ることができましたがこの順番は野心を持っていたらあり得ない行動です。
なので天下を狙うなら織田信長を討ち取るだけじゃダメなんです。
信忠も同時に潰さないと詰んでしまいます。
二条城に移るまでに明智光秀に気付かれる事もなく、光秀も棚ぼた的に信忠も討ち取ることができただけです。
このように本能寺の変は前準備も少なく、突発的に信長のみを標的にしているかのような行動を取っています。
そもそも今の地位を捨てる意味はあるのか
ほぼ全国を治めていて、天下統一まで秒読みだった織田信長。
この時明智光秀55歳(諸説あり)。この歳から内乱を起こして今の地位を捨てようと思えるでしょうか。
まとめ
以上の理由から明智光秀の野望説に僕は否定的です。
ここから考えられるのは、明智光秀の裏に主犯が隠れていて、光秀は先鋒だったに過ぎないという考えです。
そして、織田の権力を越えた人物……
つづき