本能寺の変を考察する③ 足利義昭黒幕説を後押しする根拠
というインパクトが大きすぎて見ていない小さな疑問が散りばめられています。
しかし、光秀の信長に対する恨みは捏造に近い。
ということで明智光秀に近い人間で、信長に強い恨みを持っている人物が黒幕にいたと考えました。
その時ぴったりと条件に当てはまったのが第15代室町将軍足利義昭。
なんと光秀は信長の家臣であると同時に将軍にも仕えていた二重登用の状態だったのです。
足利義昭
足利義昭は若い頃に京都を離れ、越前の朝倉家に匿われています。
その後、再び京都に戻りたいと考えます(上洛)。
これが1568年の事。この時3人は出会う事になりました。
個人的な信長嫌い
足利義昭と上洛を手伝った信長は仲良くなり、副将軍を勧められるまでになります(信長は辞退します)
しかし、室町幕府を再興したい義昭と武力による天下統一を目指している信長は互いにそりが合わなくなっていきます。
信長は義昭の政治を批判する文書を送り、将軍をないがしろにした態度を取っていました。
対する義昭は信長を朝敵と定め、何度も信長包囲網を敷き、他の大名に信長を討つことを命じています。
義昭が信長を狙う動機は十分にあります。
明智光秀は信長と義昭に二重に仕えていた
その後信長に付き、信長と義昭が争うことになった時に信長側についていた事から信長の家臣という面が強く見えますが、幕府とも繋がっています。
本能寺の変に義昭が関与している節が伺えます。
光秀以外の裏切り者が足利義昭とつながっている
浅井朝倉家との戦い
朝倉家が将軍家と繋がっていた事から浅井朝倉を正義、信長を朝敵と決め、本願寺家や武田家を巻き込み信長包囲網を敷くまでに発展します。
信長包囲網
信長の同盟国というわけではありませんが、本能寺の変の直前まで義昭の命に従って毛利家や上杉家は対抗していました。
荒木村重
信長に重用されていた荒木村重も1578年に突然裏切っています。
伊丹の領土を任されるまで信頼されていた荒木村重ですが反旗を翻しました。
その原因も謎が多いのですが、その中の説の1つに
という話があります。
松永秀久
信長を裏切り、最期は茶器を抱えて爆死したという逸話のある松永秀久も幕府と繋がっていました。
1568年に義昭が上洛した際に松永秀久は幕臣になっており、最初は信長に協力する姿勢を見せていましたが、次第に信長から離れていくことに。
現代では信長の快進撃だけがイメージとしてありますが、戦国時代は室町時代の後期であり、将軍を上に立てる事が当たり前と考える風潮が残っていたと考えるとあり得る話です。
本能寺の変後の義昭の手紙
明智光秀が土橋重治へ送った手紙
日付は6月12日(本能寺の変の10日後)。
内容は「将軍(足利義昭)がご入洛の際に奔走してください」というもの。
信長討伐に将軍の再興が関係してた事を伺わせます。
足利義昭が乃美宗勝に送った手紙
天正10年6月13日乃美宗勝宛足利義昭御内書解釈への疑問 - 日本中近世史史料講読で可をとろう
日付は6月13日(本能寺の変の11日後)内容は「信長を討ち果たしたので入洛する。そのときは馳せ参じるべし」。
自分が信長を討って再び京都へ戻ろうとしているということが書かれています。
まとめ
以上本能寺の変の黒幕についていろいろ書いて来ましたが、どの説も面白いので飽きが来ませんね。
今後新しい証拠が見つかり、新説が出てくるかもしれないのでそれも期待しています。