本能寺の変を考察する① 事件の全体像とこれまでの通説
俗に言う本能寺の変である。
戦国時代最大のミステリーとされ、いまだに真相は藪の中でさまざまな説が唱えられ、歴史学者、歴史好き問わず議論の的になっている。
今回は当時の日本の情勢、事件の状況を整理して、真相の究明の足掛かりがつかめればと思っている。
当時の情勢
この時織田家に歯向かう勢力は
越後の上杉
中国の毛利
四国の長宗我部
を残すのみの状態。
越後の上杉征伐に柴田勝家
中国の毛利征伐に羽柴秀吉を向かわせ、
四国の長曽我部征伐に向けて信長の神戸信孝を向かわせようとし、
関東の武田家の後始末を滝川一益に任せていた。
時系列
事件当日までの信長の動きを追っていく。(旧暦で統一)
天正10年5月15日
信長は明智光秀に家康の接待を命じる。
(この時光秀の出した料理に信長が腹を立て、家康の目の前で罵倒し、殴りかかったという有名な逸話がある)
5月17日
中国征伐をしていた羽柴秀吉から
「高松城を攻めあぐねている間に毛利、小早川、吉川の援軍が来て困ってます。出陣をお願いします。」
という手紙が届く。
相手の大将格が出てきている今こそ毛利征伐の好機と捉え、要請に応えるよう動き出す。
接待をしていた明智光秀の任を解き、中国出征の準備を進めさせる。
5月20日
家康の接待は20日まで続き、家康に堺を見物でもするよう勧め、自信も中国出征の準備を始める。
5月29日
安土城に兵を残し、「声をかけたら出陣」するよう伝え、わずかな供廻りを連れて上洛。
本能寺に到着する。
この時茶器を始めとした名器の数々を持参している。
6月1日
公家達と茶会を開く。これは安土城から持ってきた名器を見せ合うための茶会だったと言われている。
茶会が終わると酒宴になり、既に京都に来ていた信忠も合流し、酒を飲み交わす(信忠は5月14日に安土城に着き、出陣のため5月19日に京都へ来ていた)。
深夜、信忠は自身の寝泊まりしている明覚寺へ帰る。
6月2日
未明。寺の外で喧騒が聞こえる。
最初、兵士たちの喧嘩かと思っていたが、鬨(とき)の声と銃声が上がり、本能寺へ弾が飛んで来る。
小姓の森欄丸に確認をとると明智光秀の軍が攻めてきていることが発覚する。
当時本能寺に待機していた兵は100人足らず。
対する明智軍は13000の兵で本能寺を包囲している。
必死に抵抗した信長も明智軍の猛攻に負傷。
屋敷に火をつけられると奥へ消えていき、炎の中で果てたと言われている。
信長公記によると午前8時前には攻め終わったようである。
明智光秀の疑問点
もっとも主流だったのは、
明智光秀に野心があり、信長の近辺が手薄になった時を好機と見て攻撃したという説。
信長に常々虐げられてきたことに対する恨みから、手薄になった(ry
といったこれら明智光秀の突発的な反抗が有力視されてきた。
何をしたのか少しだけみてみよう。
明智光秀の事件後の行動
ここでは簡単に明智光秀のとった行動でおかしいと思った事を書き連ねてみる。
・本能寺を襲った後、信忠も近くにいることを知り、二条御所に向かう。
・近しい関係(娘婿父子)の細川親子に変後に応援を要請する(そして断られる)
まだまだ気になる点はあるが、野心を持って下克上を目指すにしてはずさんな行動が多く、私憤にかられていたにしても納得がいかない。
長くなったので続きは次回以降。